端午の節句 その由来や歴史について調べてみた!

端午の節句

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端午(たんご)の節句 由来と歴史

端午の節句は五月五日、現在の子供の日です。

節句は本来「節供」と書いていたそうです。

「祭日に特別な食物を作って神に供え、自分達も食べた」

ということからきているそうです。

五節句(五節供)があり、人日[じんじつ一月七日]、上巳[じょうし三月三日]、

端午[五月五日]、七夕[しちせき七月七日]、重陽[ちょうよう九月九日]です。

端午の節句、五月五日の節会は奈良時代から行われています。

もっと古くは、推古天皇の頃(7世紀)、

五月五日に薬猟(薬草の採集)を行った記述があります。

これは中国晋(3世紀)の頃、

「端午に薬草を摘み、菖蒲(しょうぶ)を門にかけて邪気を祓(はら)った」とあるから、

日本もまねをしたのだろう。

平安時代の朝廷では節会は五月三日から始まったそうです。

菖蒲とちまき

三日に薬玉の料となる菖蒲を奉納し、四日に諸所の殿舎の軒に菖蒲をふき、

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五日に天王が出御して酒宴となり、粽(ちまき)が献上されました。

このちまきを食べる習慣も中国から伝わったものです。

紀元前3世紀の楚で、淵に身を投げて死んだ屈原の霊をなぐさめるために、

ちまきを供えたといういわれがあります。

また、漢代末(2世紀末)、端午と夏至に、ちまきを食べたという記録があります。

中世になり、朝廷の端午の節会は行われなくなったが、鎌倉・室町幕府は端午を祝日と定め、

軒に菖蒲をふき、菖蒲枕を用い、菖蒲酒を飲んだ。

菖蒲が「尚武」に通じるので、武家に喜ばれたのです。

江戸時代

江戸時代になると、端午の節句はますます盛んになりました。

江戸幕府が端午の節句を五節句中一番として重視したためです。

四月二十五日から五月四日まで、京の四条、大坂(大阪)の御堂筋、

江戸の中橋・尾張町・浅草茅町・十軒店で、

節句用の幟(のぼり)・兜(かぶと)・武者人形を売る市が並びました。

五月三日に、御三家(紀伊・尾張・水戸徳川家)と諸大名は

将軍家に帷子(かたびら)を献上し、

五日には染帷子・長袴(ながばかま)を着用して登城し、

柏餅(かしわもち)を食べて祝賀を述べます。

御三家・御三卿(一橋・清水・田安徳川家 18世紀以降)はちまきを献上します。

柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないのです、

「子孫繁栄」を意味するものとして柏餅を食べる風習が生まれました。

七歳以下の男子のある武家は玄関前に外幟・吹き流し・鯉幟を立て、

座敷には内幟・鎧(よろい)・兜・武者人形・青竜刀などを飾ります。

風呂はもちろん菖蒲湯♪

誕生後初めての節句は「初節句」として特に重んじて、

各種の幟や武者人形を贈って祝ったそうです。

武者人形の中でも鍾馗(しょうき 魔除けの神)の人気が高い。

町家でも端午の節句を祝った。ただし、吹き流しは立てない。

湯屋では菖蒲を湯の中に入れ、菖蒲酒を飲んで、柏餅とちまきを食べます。

料理は自然薯・筍・カサゴの干物をいっしょに煮たもの。

京・大坂では初節句には親類縁者にちまきを配り、二年目から柏餅を贈った。

子供達は菖蒲打ち(菖蒲たたき)をして遊んだ。

菖蒲を太く編んで地面を打ち、音の大きさを競う。

菖蒲で鉢巻をしたり、菖蒲刀を腰に差したりした。

このように端午の節句は男子の節句であるが、元来は女の祭でした。

日本には「五月忌み(ごがついみ)」という風習があり、田植えの前に男達は家から出て、

女達だけが家の中で身を清めて穢れ(けがれ)を祓う。

一部の地方には、五月四日の夜から五日にかけて女達が家を仕切る

「女天下」や「女の家」という風習も残っている。

中国から伝わった端午の節句が「五月忌み」と結びつき、朝廷の儀式となって形を整え、

武家の祝日となって「男の節句」に変わってしまったそうです。

「子供の日」は男女の区別はないから、

古代からの日本の風習と中国伝来の儀式がようやく溶け合ったと見るべきでしょうか?

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